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7.師団長命令に関する考察
大谷(1987),一ノ瀬(2007)及び原田(2008)などの先行研究は,清国側の残虐 行為
に対する報復として,第1師団長の山地中将が「婦女老幼以外の壮丁の清国人をすべて殺
害せよ」と命令したことが本事件の背景に存在したと指摘した。しかし,この所論に対し
ては疑問がある。
1万人超の師団将兵に密命を下すのは不可能であるため,仮に命令が出たとすれば,師
団長としての正式命令と解する以外にない。しかし当時の日本軍では,重要文書を参謀が
起案し,参謀長が筆を加えた上で,師団長の決裁を受ける手続きであったため,こうした
直截的かつ過激な表現の命令文書が作成されたとは信じがたい。
さらに,外国人記者コーウェンは,「日本の将校等が旅順進撃に当り支那人が其敵の身
体に加へたる残虐の為に起こされたる憤激をば極力減殺せむと力めたるは余が目撃者とし
て断言し得る所なり」(二六新報明治27年12月25日)と証言する。もしも師団長自らが報
復を命令したのであれば,将校たちが兵士の掣肘に努めるとは考えにくい。
問題の「師団長命令」の論拠とされるのは,
歩兵第2連隊上等兵の関根房次郎及び第2
軍通訳官の向野堅一の日記であるため,それぞれの内容について考察する(65)。
Japanese War” p.89. 誤字修正済み)
(64) (外務省書記官鄭永昌の報告)「商店家屋ニ存在セシ物品財産ノ重ナルモノハ日本軍進撃前已ニ運 搬サレ只
残ルモノハ価値ナキ雑物ノミナリ」(有賀(1896),113頁)。
(65) 論者は,三田村熊之介著の『日清戦争記金州旅順之大戦』(国立国会図書館近代デジタルライブラ リー所蔵)
─2 15 ─
7.1 関根房次郎の日記
関根房次郎の『征清従軍日記』には,以下に示すように3段階の原稿があり,問題箇所
に関する記述が変遷している(一ノ瀬(2007),76-79頁)。
( 第1稿)「山地将軍より左の命令あり。我が軍にては上陸以来,当地迄は敵国の人民
といえども,土民に対しては暴行をなさざれども,今よりは土民といえども我軍に妨
害する者は不残殺すべしとの令あり。此所において我々兵士始め敵地に入りたる心得
を以て,旅順兵を鏖殺するの勇気一層増加せり」
( 第2稿)「団体長令して曰く,敵の残酷最も甚だし,また軍人化して土風判別し難き
土民もまた応援を成すによって,今後は容赦なく壮丁者は悉皆,兵農の区を分けず射
斬すべしと達せられしかば,各兵士は幸い元気満々,勇気勃々」
( 最終稿) 「団体長令して曰く,敵の残酷最も甚し,また軍人化して土風分別し難き土
民もまた応援を成すに依て,今後は容赦なく壮丁者悉皆兵農の区を分けず射斬せしと
達せられしかば,各兵士は幸いに元気満々,勇気勃々」
後述するように,日清戦争当時の国際法では,非交戦者による敵対行為は戦争犯罪とさ
れ,その行為者(以下,「民間戦争犯罪者」とする)を処罰することを認めていた。しか
し第2軍では,それまで民間戦争犯罪者を処罰せずに放免していた(66)。
第1稿は,「土民といえども我軍に妨害する者4 4 4 4 4 4 4 4 は不残殺すべし」(傍点筆者)と述べ,民
間戦争犯罪者を殺害対象としており,それまでの寛恕方針からの転換を意味する。しかし
第2稿以下では,成年男子を悉く殺害せよと書き換えられた結果,民間戦争犯罪者の処罰
から単なる報復へと内容が変質している。
順序から考えて,関根がもともと認識していた「師団長命令」の内容は第1稿だったと
解するのが自然である。しかし第1稿の文章は,「当地迄は敵国の人民といえども4 4 4 4,土民
に対しては暴行をなさざれども4 4 4 4 4 4,今よりは土民といえども4 4 4 4 」(傍点筆者)と重複が目立つ
上に,論旨が複雑で分かりにくい。そこで第2稿以下では,論旨を単純明快にするととも
に,「壮丁者悉皆兵農の区を分けず射斬」と文語調で勇壮な表現に変えたと思量される。
つまり,関根日記の記述の変遷は,4.2で前述した武勇談としての誇張がなされた実例で
ある。
ちなみに,第2稿以下で「山地将軍」が「団隊長」に書き換えられた件に関し,一ノ瀬
(2007)は「関根自身,山地の名を出すのはやはりまずいと思い,「団体長」というぼかし
に,「十八日の戦敵兵の残忍酷薄なる深く我軍を怒らしめ師団長は各将校に諭すに報復を以てし各 隊又現に
其の惨状を視て進み旅順の進撃は鏖殺を期せしなり」(同66頁)と記述されていることも,師団 長命令の論
拠の一つに挙げている。
しかし,同書の印刷が攻略戦から一カ月も経過していない12月19日であること,著者の三田 村熊之介は
『日清戦争記平壌及黄海の大捷』及び『日清戦争記九竜城之戦』も執筆していることなどを勘案す ると,同
書は従軍者の体験談ではなく,当時の新聞記事に掲載されたエピソードを編集したものと推察され ,証拠
価値を認めることはできない。
(66) (写真家亀井玆明の日記)「(10月30日)我第一連隊ノ哨兵線内ニ入リ兵士ニ対シテ暴行ヲ加ヘタル二人ノ 土
人ハ之ヲ捕ヘテ第十五連隊ノ風紀衛兵ニ交付シ転シテ師団司令部ニ致ス 則チ参謀将校ハ大ニ之ヲ 戒メ我
王師ノ向フ所ハ正々堂々唯清国ノ不信ヲ責ムルノミ爾等土民ニ向ヒ寸毫敵意アルコトナシ 自今復 タ斯ノ
如キ乱暴ヲ為スコト勿レト我十銭銀貨二個宛ヲ与ヘ縛ヲ解テ之ヲ放タル 彼等叩頭三拝九拝シテ去 ル」(亀
井(1992),88頁)。
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た表現にしたのだろう。(中略)軍の不祥事はそこに従軍した自分の名誉にかかわる,だ
から隠蔽したいという心理が加わったのであろう」(同80頁)と指摘した。
しかし,文脈から判断して,関根当人は本件を不祥事と認識しておらず,むしろ当然の
報復行為と考えている。さらに,もしも不祥事と認識していたのであれば,「団体長」と
中途半端な記述とせずに,「命令」の事実を文中から削除すれば済むことである。
校正の段階で「団体長」と書き換えた理由は,「師団長命令」であるかどうか自信がな
かったためであろう。関根当人としては,前述のとおり第1稿の内容を「師団長命令」と
認識していたが,いざ文章に書き起こしてみると,「師団長命令」の形式から大きく外れ
ていることに気付き,誰が命令を出したのか曖昧にする表現に変えたものと推察される。
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